焼入れ温度としては、炭素量が0.6〜0.7%と比較的高い玉鋼を用いる備前伝では780℃程度に加熱するのだそうです。炭素量が比較的低い玉鋼を用いる相州伝では800℃程度に加熱するそうです。焼入れ温度が比較的高いときは、沸が主調となる沸出来、低いときは匂が主調となる匂出来になるそうです。これは含有炭素量によって変わってくる場合もあるそうです。

玉鋼は、冷却する速度によって異なる鋼組織になるそうです。焼刃土が薄く塗られた刃先の部分は急冷されることになるかと思います。オーステナイトがマルテンサイトという鋼組織に変態するそうです。マルテンサイトというのは、非常に硬く、物を斬るのに適した鋼組織だそうです。刃先から内部に行くに従って、ツルースタイト、ソルバイトという組織も生じるそうです。一方、焼刃土が厚く塗られた棟側は徐々に温度が下がっていくということで、オーステナイトがパーライトとフェライトの組織に変態するそうです。また、造り込みの内部の心鉄は、炭素量が0.3%〜0.4%ほどで、フェライトとパーライトの組織になるそうです。パーライト+フェライトというのは、延性や靭性が大きい集合組織だそうです。この場合、刃の部分は硬くてよく切れるそうです。一方で、刀身全体としては柔軟性があり、折れにくい強靭な日本刀をつくることができるそうです。焼入れで生じたマルテンサイトというのは不安定だそうです。非常に硬く脆いということもあるそうです。そのため、再加熱して粘さを回復させる熱処理が一般的に行われるそうです。これを焼戻しというそうです。作刀においても、合い取りといわれる、水を落とすと湯玉になって転がるくらいの温度に再加熱するという焼戻し処理がなされるそうです。

日本刀を巡って、その周辺の、現代にも脈々と受け継がれている礼儀作法や、日本刀を用いた稽古や、古武術の中に存在する鍛錬方法などをなるべく有効に活用しながら、そもそも、戦国時代や、江戸時代などの、武士社会において、日本刀などが精神と結びつけられてどのように考えられていたのか、ということを、具体的に学ぶチャンスがつかむ必要がある、ということです。日本刀やそれをもちいていた武士がどのような変遷を経てきたのかという、具体的な歴史的観点を、しっかりと理解しておくことで、武士道の本質をつかむということが重要だ、と言えるのではないでしょうか。 確かに、最近では、身の周りにいる人に、稽古をつけてもらったりだとか、身近な人から、このような武士道精神を、学ぶことができなくなってしまったことは、大変、残念なことではありますが、現代では、図書館などに行けば日本刀に関する理解を深めることは容易にできますし、江戸時代などとは形を変えて、日本刀や、模造刀を用いたエクササイズや、イベントなども、催されていることから、このような形で、積極的に、参加していくことで、かつての、古き良き日本人が、どのように考えて、物事を執り行っていたのかということが、分かるようになるかもしれない、可能性も、秘めているということは、確実に言えるかもしれませんね。日本刀は相手を切るというためだけに存在していたのではなくて、自分自身の、自己研鑽のために存在していたということは確かでしょうし、当時の武士社会において用いられていた考え方もふくめてひとまとめにして学ぶということが何よりも重要であると考えられるのではないでしょうか?

鉄には本来切れ味が増すにつれて折れやすくなるという性質があり、折れなければ曲がりやすい。しかし日本刀はこうした鉄の難点を見事に解決して切れ味と耐久性を誇り、さらには美術的価値まで有するようになりました。この進化の秘密は一体どこにあるのでしょうか。武家政権が誕生して以降、自分や家族の命を守るため、優れた武器を入手できるかどうかは文字通り死活問題でした。刀工へのリクエストは創造へのプレッシャーとなり、点々と良作が生み出されましたが、この良作を偶然の出来に終わらせず、体系化したのが大きかったと思われます。様式が確立し、刀匠が教授するメソッド(基本的製造法)が成立したからです。

 刀匠は後輩の刀工から敬われると同時に、高い地位にある武士たちからも信頼されました。当時のエリート階級であった武士は美学的教養も持ち合わせていました。彼らは己の審美眼にかなうデザインを刀匠にリクエストし、刀匠もまたそれに応えようと研鑽を重ねました。その結果が熱処理によって刀身に模様を浮かび上がらせる刃文であり、彫刻や象嵌が散りばめられた刀装と相俟って、日本刀を一大芸術品にまで高めることになったのです。

 こうした日本刀には海外でも称えられる伝説が存在します。織田信長が黒田官兵衛に与えた名刀は、信長に無礼を働いた茶坊主を成敗したのですが、間に塞がった棚もろとも押し切ったと伝えられています。また本田平八郎忠勝が愛用した「蜻蛉切」は、蜻蛉がその刃先に止まっただけで切断されるほどの切れ味だったそうです。さらに伝説は近代のものまで存在し、第一次世界大戦中にドイツは日本刀の成分分析を試み、その結果を大砲製造に利用したというのです。

日本刀は、西洋の一般的な刀とは異なり、両方に、刃があるため、諸刃の剣などという風にも、言われることも多いようで、相手を、傷つけようとすれば、自分自身にも、その影響が帰ってくるということの、精神的な考えの表れである、というふうに考えられているでしょう。ともかく、上級者と、呼ばれる家庭までたどり着くためには、毎日毎日の、地道な鍛錬が、重要であるということは、忘れないでおいた方が、いいかもしれません。このようにして、達人のようになってしまえば、まるで、自分の手の一部のように、刀を扱うことができるようになるため、このような段階においては、全く、力を入れずに、鍵をコントロールすることが、できるということです。 かつては、質の高い、訓練を取り入れることは、それほど難しいことではなく、母親や、父親や、近くにいる剣術に長けた人などに、気軽に教えてもらうことで、自分自身を高めることができたわけですが、現代では、複雑な、社会の発達によって、むしろ、堅実などを知らない人のほうが、圧倒的多数になってしまったため、心技体が揃った、剣術の専門家を探すことは、とても、難しくなってきていると、いうふうに考えられます。江戸時代などでは、日本刀を用いた、武士社会が一般的であったため、身近な人に剣術などや、それにまつわる精神論を学ぶことができたわけですが、現在では、非常に難しくなってしまっている、ということは、大変、残念な状況があると考えられます。しかし、識字率が大幅に向上し、様々な本が、出版されている現代においては、日本刀や、それを用いた、かつての精神的な考え方というのが、どのようであったか、ということが、文字資料として、十分に残されているということは、ありがたいことです。

 

日本刀は神道の影響を強く受けており、庶民も単なる護身具の域を超えた「お守り」としての価値を、短刀や懐刀に見出してきました。現在でも和式の婚礼において、花嫁衣装の一つに数え挙げられます。他方、短刀は自裁用の道具としてもイメージされてきました。プッチーニの代表的オペラである「蝶々夫人」のラストシーンでも、ヒロインは武家の娘として懐刀で己の喉を突き刺します。そもそもこの懐刀は天皇から下賜されたもので、ヒロインの父の自害にも使われたという筋書きです。また明治天皇の崩御に際して自決したことで知られる乃木夫妻も懐刀を使用したとされており、日本刀と「潔い自決」とは深く連関してイメージされてきたことが分かります。

 日本刀の「神性」「清浄」「潔さ」「死」という表象は、当然にその滑らかな光沢と無縁ではありません。この刀身の美しさはそれだけでも一等の価値があるのですが、刀匠の中には刃文のデザインに心血を注ぐ者が出現し始めました。日本では古代の刀工は単なるギミック製作者に過ぎませんでした。「古事記」や「日本書紀」の記述にもあるように、中国や朝鮮半島の技術を真似て製造したのです。ですから当時は流派なるものも存在しませんでした。しかし平安時代中期以降は日本刀に反りが生じ始め、刀匠の技術や意匠が影響して刀の出来に差が生まれるようになったのです。五大流派が確立してからも各地で刀剣製造技術は発展し、江戸時代は各藩の特産品としての刀剣造りが一層盛んになりました。持て囃された刀匠は有力武士の細かいオーダーに対応するべく、独自の意匠と技術を駆使したのです。刃文の受注もその流れの中で慣習化し、優れた刀匠が鮮やかな模様を刀身に刻み入れました。