刀装具である鍔や目貫は実用的でありながら美しいことが評価の眼目でした。この向きは中世にまで遡り、室町時代には定着していたと言われています。室町時代は武士の衣服に変化のあった時代でもありました。それまで専ら素襖を着ていたのですが、徐々に衣袴が採用されていったのです。小袖の着物の上に肩衣をかけ、さらに袴をはくという拘りを見せ、それに合わせて持ち歩く日本刀も太刀から打刀に大きく変容しました。日本刀が衣服に相応する装飾品として、すなわちファッションとして捉えられ始めたのもこの時期に当たります。映える日本刀の所有意欲が高まり、刀装具も華美に仕立て上げられるようになったのです。

 刀装具に特に拘る者は、刀装具専門の彫金師に仕上げを依頼しました。足利家に仕えた後藤祐乗や江戸時代に活躍した横谷宗珉は有名な彫金師でした。日本刀には刀装具の他、提げ物と呼ばれる印籠などが付き物だったことから、特に拘りの強い者は全身の装具に装飾を施すのも珍しくはありませんでした。

 このように美しく飾り立てられた日本刀ですが、刀である以上は切れ味も美しくなければなりませんでした。よく切れるということは強度もあったということですが、さすがに「1000人斬り」等の逸話は作り話だったとされています。映画では殺陣のシーンで大立ち回りが演じられますが、死人の山を築くことは人間の労力の面で、また刀の能力の面で現実的ではありません。急所を的確に斬るためには斬る者の筋力と、滑らかな動作を持続させる刃の強度が必要ですが、刀はすぐに刃こぼれします。それを証明するかのように、新選組の山南敬助が描いたスケッチにもボロボロの日本刀が見て取れます。