「古今伝授行平」は平安時代末から鎌倉時代初めの豊後国の刀匠・行平の作の太刀である。慶長5年の関ヶ原の戦のおり、東軍側の細川幽斎が籠った丹後田辺城を西軍側が攻めた(田辺城の戦い)。その頃、細川幽斎は古今伝授のただ一人の継承者で、幽斎の死は古今伝授の断絶を意味した。断絶を危惧した八条宮智仁親王は、細川幽斎に田辺城開城を求めた。幽斎は拒絶した。更には後陽成天皇が、三条西実条、中院通勝、烏丸光広等を勅使として開城を命じた。幽斎も勅命には抗じ難く、寄せ手と講和開城に至った。講和取り成しの礼として烏丸光広に古今伝授を行い、太刀を贈ったといわれている。このことから「古今伝授行平」と称されるようになったそうである。