日本刀は神道の影響を強く受けており、庶民も単なる護身具の域を超えた「お守り」としての価値を、短刀や懐刀に見出してきました。現在でも和式の婚礼において、花嫁衣装の一つに数え挙げられます。他方、短刀は自裁用の道具としてもイメージされてきました。プッチーニの代表的オペラである「蝶々夫人」のラストシーンでも、ヒロインは武家の娘として懐刀で己の喉を突き刺します。そもそもこの懐刀は天皇から下賜されたもので、ヒロインの父の自害にも使われたという筋書きです。また明治天皇の崩御に際して自決したことで知られる乃木夫妻も懐刀を使用したとされており、日本刀と「潔い自決」とは深く連関してイメージされてきたことが分かります。

 日本刀の「神性」「清浄」「潔さ」「死」という表象は、当然にその滑らかな光沢と無縁ではありません。この刀身の美しさはそれだけでも一等の価値があるのですが、刀匠の中には刃文のデザインに心血を注ぐ者が出現し始めました。日本では古代の刀工は単なるギミック製作者に過ぎませんでした。「古事記」や「日本書紀」の記述にもあるように、中国や朝鮮半島の技術を真似て製造したのです。ですから当時は流派なるものも存在しませんでした。しかし平安時代中期以降は日本刀に反りが生じ始め、刀匠の技術や意匠が影響して刀の出来に差が生まれるようになったのです。五大流派が確立してからも各地で刀剣製造技術は発展し、江戸時代は各藩の特産品としての刀剣造りが一層盛んになりました。持て囃された刀匠は有力武士の細かいオーダーに対応するべく、独自の意匠と技術を駆使したのです。刃文の受注もその流れの中で慣習化し、優れた刀匠が鮮やかな模様を刀身に刻み入れました。